富山の養蚕と煙硝

富山の養蚕と煙硝 五箇山・菅沼集落・相倉集落・煙硝街道
富山の養蚕と煙硝

富山の養蚕と煙硝

日本最大の合掌造りの家・岩瀬家

2021年3月、五箇山にある、国の重要文化財に指定されている岩瀬家を尋ねました。300年程経っている合掌づくりの家です。ちょうど女将さんと娘さんが表庭で障子の張替えをしていました。毎年春祭りまで間に合うように、暖かい日を選び張り替えているそうです。ほのめかしいシーンでした。

岩瀬家住宅は、約三百年前に当主藤井長右エ門により建てられた日本最大に合掌造りの家です。八年もの歳月を費やされた岩瀬家は、間口14.5間(26.4m)・奥行き7間(12.7m)・高さ8間(14.4m)あり、5階建となっています。

当時、岩瀬家は、この地域で生産されていた塩硝を、加賀藩に取りまとめ納入する上煮役の家でした。天領飛騨白川郷に対し、加賀百万石の威光を示したものだとも言われています。明治時代までは、35人もの大家族が暮らしたと伝えられています。

岩瀬家は、昭和33年(1958年)国指定重要文化財に指定されました。また、平成7年(1995年)、岩瀬家から程近い菅沼・相倉の両集落は、後世に残すべき貴重な文化遺産として、ユネスコの世界文化遺産に登録されています。

五箇山

五箇山の名前の由来は、山々の間を貫く谷に沿うように線状に集落が並ぶこの地形にあります。5つの谷合い集落から成り立つこの地域一帯が、谷という意味を持つ「箇」という漢字を用いて五箇山と呼ばれています。五箇山は、大自然の優しさより、むしろ厳しさの多い地です。人々は、その厳しさに寄り添うように生活してきました。

その象徴が合掌造といわれる家屋です。手を合わせたような急勾配の屋根の形は、豪雪地帯のこの地で雪を落としやすくし、屋内を幾階にもわけて活用する為です。岩瀬家は、準五階建てで、3~5階は養蚕の作業場となっています。また、囲炉裏からの暖を上げやすくする為、上階の床板は透かしの目皿になっています。


大黒柱などは、尺(30cm)角のケヤキ材が使われています。また24畳敷の出居の敷板にも全てケヤキ材が使われており、しかも釘などの鉄や金物を一切使わずに、縄とねそで結びあげて​造られています。

障子

中に入ると窓が少なく暗いのですが、その暗さが窓から見える景色をまるで絵画のように人の目に飛び込んできます。陰と陽、昔からある言葉通りの家です。外から2階の東側窓を見ると、障子の窓でした。不思議な事にその障子は全く雨が染みた跡がありません。軒の出と地域の風などの気候を理解した造りです。そんなくふうがあって、300年という風雨に耐えてきたのだと思います。


岩瀬家
富山県南砺市西赤尾町857-1
国指定重要文化財
岩瀬家のホームページ参照>>

菅沼集落

南砺市・五箇山には、菅沼合掌造り集落があります。9戸の合掌造り家屋は、冬の豪雪に耐える構造的な強さを持ち、生活の場と仕事場の両方を兼ねそなえた建物です。日本の原風景ともいうべき山村の景観も含めて、1995年12月に岐阜県白川郷、五箇山相倉とともにユネスコの世界文化遺産に登録されました。

合掌造り家屋は、全国でも有数の豪雪地帯で暮らす人々の生活の知恵によって発達してきました。屋根の傾斜が60度もの急勾配になっているのは、湿った雪の重みに耐えるとともに、雪を滑り落としやすくするためです。雪下ろしの負担を軽くするための知恵といえるでしょう。

五箇山民俗館

茅葺き屋根

合掌造り家屋の最大の特徴は、“茅葺き屋根”であり、その葺き替えには多くの人手と時間を要します。昔からその作業は、人々が互いに助け合う「結(ゆい)」という制度に基づいて受け継がれてきました。

茅葺きに使用する茅は、秋に刈り、雪垣にして冬を越すことで、春までに乾燥させるという流れで準備されます。茅葺き作業では、朝、結の人々が集まり、屋根をむく作業から開始。葺き替え前の茅を質によって選別し、質の悪いものだけをむいていきます。次に、茅の束を屋根の妻の隅に結束する「ハフジリ」、屋根の軒の部分を葺く「オジリ」、そして、一番広い屋根の面の部分を葺いていきます。こうして丸1日かけて屋根の葺き替えが終わります。

 

火薬の材料・塩硝づくり

五箇山の合掌造り家屋の造りは、塩硝、養蚕、紙すきとも深い関係があります。五箇山は、耕作地の狭い土地柄だったため、人々が生きていくためには農作物以外の換金産物が必要でした。そこで、平野部の米づくりに匹敵するほど五箇山の人々にとって重要だったのが、塩硝づくりです。その生産は、江戸時代に五箇山を治めていた加賀藩の奨励と援助を受けて、五箇山の中心産業にまで発展しました。

煙硝の原料は蚕のフン

火薬の原料となる塩硝は、土の灰汁(アク)を煮つめて作ります。
硝化バクテリアが寒い冬でも活動できるように、囲炉裏のそばに穴を掘って、1間四方ぐらいの空間を作ります。わら、蚕のフン、ヨモギ、土を重ねて入れて、数年寝かせておき、土に成分が移った頃にその焔硝土を煮詰めて煙硝を抽出する方法だったようです。養蚕も同時の行っていたため、蚕のフンが使用されたのです。
いろりで煮詰めては塩硝を取る、という作業を何度か繰り返して上質の塩硝を作っていきます。そのためには、大きないろりや広い作業場などが必要となり、塩硝の生産量は家の大きさに比例していました。広い作業場は紙すきにも活用されました。

屋根裏で養蚕

また、合掌造り家屋は、屋根裏部分を養蚕のための場所として活用していました。屋根裏部分に囲炉裏の熱が届くよう、屋根裏部分を2層3層に区切り、天井に隙間を空けるといった工夫が凝らされていました。すると、囲炉裏の熱とともにスス(煤)が柱の縄に染み込むため、建物の強度を増すという効果もありました。また、養蚕は、塩硝のもととなる土を作る際に蚕糞を入れることから、塩硝づくりとのつながりも深かったのです。

煙硝街道

五箇山から加賀(金沢)の土清水塩硝蔵を結ぶ道は、ブナオ峠越え、小瀬峠越え、横根峠(不明)越え、という3筋の道が文献に見られます。加賀藩の陰道で「煙硝街道」と呼ばれています。塩硝、火薬の原料を運ぶ軍事的に重要な道であったにもかかわらず、幕府に提出する国絵図にも記載されませんでした。


菅沼集落のホームページ参照>>



相倉集落

菅沼合掌造り集落ともに、相倉合掌造り集落には、20棟の合掌造り家屋が現存しています。田畑、石垣、雪持林など懐かしい景観に囲まれ、昔ながらの生活が息づく、山間の小さな集落です。1970年(昭和45年)に国の史跡指定を受け、1994年(平成6年)に重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。1995年(平成7年)に世界文化遺産に登録されています。

相倉集落には、現存する合掌造りの原型となる原始合掌造りが残っています。五箇山の民家は、この原始合掌造りをもとにして「素屋造り」から「四ツ囲い」へ、「妻入り」から「平入り」へと発達し、さらには二階建の茅葺民家へと変遷していきました。変遷の過程を、集落内の民家の外観からも見ることができます。



五箇山と称するこの地方は、古い時代から峠を越えた山向こうの城端町との交易によって生計をたててきました。相倉は、その街道筋に位置して人の往来が絶えなかったといいます。

集落から歩いて5分ほどの高台からは、周辺の山々に抱かれるような集落の全景が一望できます。