富山の絹織物

富山の絹織物 城端絹
富山の絹織物

富山の絹織物

富山の西側、石川県に近い城端という地域に松井機業という会社があります。代々続く絹織り工場です。私たちは、快適な居住空間とは何か?を、常に考え求めています。ある日思いついたのが蚕です。蚕は古くから人々の生業として八尾地域や五箇山などで育てられてきました。蚕は繊細な生き物ですから、蚕が育つ環境が人にも一番いいのでは?と思ったのです。五箇山を取材し、城端の織物工場を取材して出会ったのは障子やシルクに日が差した時の美しさです。現代では障子は嫌われる傾向にありますが、一部でも取り入れると暮らしの質が上がります。

現在のところ、原料である玉糸は、ブラジルの会社から輸入されています。以前は五箇山(富山県と岐阜県の県境)の生糸をタテ糸に、福光町(現・南砺市福光)の玉糸をヨコ糸に使用していました。いつの日か、南砺で養蚕を復活させて、地産の絹糸の城端絹を復活させたいと計画されています。

そのために、試験的に松井機業の敷地内に桑畑を作り、桑を独自に育て、実験的に、工場内の養蚕場でお蚕様を育てています。科学的な取り組みが進む中、ありのままの自然が持つ本来の力が大切と考え、土壌から見つめ直し、2019年には土づくりからスタートしています。オーガニックシルクでできた城端絹を期待しましょう。

城端織

戦国時代末期の1577年、城端の商人であった畑庄左衛門によって、城端で絹織物が始められたと伝えられています。加賀絹の名で販路を広げる 北陸地域は蓮如上人による布教活動で浄土真宗が普及し、栄えていきました。蓮如上人開基の善徳寺が1559年に福光から城端に移り、寺内町として越中富山の南西部でもっとも大きい町となりました。城端には、近隣から繭や糸が集められ、絹織物の一大生産地として栄えました。


江戸時代には、近隣の砺波郡南部地方や五箇山地域の村々で作られた繭や生糸が城端に集められ絹織物となり、「加賀絹」として京都や江戸へと運ばれ、城端の絹織物業も急速に成長しました。江戸時代の1693年には、すでに城端に住む半数以上の人が絹織物に関わっており、五箇山地域の生糸をタテ糸に、砺波郡南部地方の玉糸をヨコ糸に使用した「しけ絹」が主な生産品目でした。

松井機業のホームページ参照>>

株式会社松井機業
富山県南砺市城端3393

 

城端絹を使った障子


城端で出会った城端絹を使い、住宅の障子を作りたいと考えています。
城端絹の障子の開発には、時間がかかりますので、出来上がったらホームページでご案内します。


城端の街並み

蔵回廊(城端町史館)

この蔵は、1903年ごろに銀行家の野村利兵衛氏が自宅とともに建造したものです。第2次世界大戦後に、住宅は解体されましたが、残された4つの土蔵は、保存・活用するため改修され、回廊で結ばれ、展示施設・城端町史館として利用されています。
富山県南砺市城端579-3

旧・吉村絹織工場

小道上部に渡り廊下のある旧・絹織工場です。木造の廊下は、風情があります。珍しいので、思わず見上げます。
富山県南砺市城端3376

坡場の坂・城端醤油


お祭りの時には、坡場の坂を曳山が通ります。城端醤油の石垣に並んだ笛太鼓の演奏は、祭りを盛り上げてくれます。
富山県南砺市城端東上552

縦格子が美しい民家


伝統建築工法で造られた民家。柱が石場建てになっています。

間口11軒の旧家

大通りに面した、間口11間の旧家です。間口5間の建屋と間口4間の建屋が、間口2間の正面玄関でつながれています。威風堂々とした、立派な建物です。

絹織り工場跡・三角型のこぎり屋根


屋根の北側に向いた斜面にガラスの天窓が付いています。北からの採光で1日を通して均一の明かりを取り入れ、織物の色合いを見るのに適しているのです。天井が高いため、空間を確保しやすく、「連」とも呼ばれる三角屋根をつなげれば、自由に増築していくことができる。